第21話 虐待されて育った、兄の人生

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離婚してから3カ月が経っていました

 

会社の売上は激減し大赤字、

どこにも預けられない2ヶ月の我が子を抱え、

毎日不安とストレスに苛まれていた私にとって、

 

予想外に温かかった母の対応は

かなりの癒しになりました。

 

久しぶりに会ってから、

母から頻繁に連絡が来るようになりました。

 

母のお店は、週に数回しか営業せず、

時間もあったことと思います。

 

可愛い盛りの孫たちに会いたいと、

毎月一回以上、会うようになりました。

 

最初は癒しを与えてくれるばかりだった母ですが、

半年もたつころには、

負担に感じるようになっていました。

 

久しぶりに会ってしばらくは、

母は、

育児や私の生活に口を出すことはありませんでした。

 

でも数か月経つと、

育児について口を出してきて、

指南や非難めいたことを言うようになっていました。

 

また、

私たち兄弟と、私の子どもたちを比較して、

 

いい子に恵まれてうらやましい、

あんたたちとは全然ちがう、

 

など、

私が一瞬固まってしまうような発言も

たびたびするようになりました。

 

しばらくは聞き流していた私も、

そのうち母に反発心を抱くようになりました。

 

今にして思えば、

との距離を縮め過ぎたのが原因だと思いま

 

過去を詫びてたり、

腰が低くなっていた母を見て、

母は変わったのかもしれない、と思い込み、

 

びのあまり

短期間に距離を縮めて過ぎてしまいました。

 

でも、

人間そう変わるもんじゃあ無いですよね(笑)

 

私は、再会した母を、

母そのものと勘違いしてしまったけれど、

 

母は自分を良い人に見せようと、取り繕ったのかもしれません

 

四人もいた子どもが一人も寄り付かず、

孫とも会えず、さみしい

 

に気に入られようという気持ちが、

少なからずあったはずです

 

でも

距離を縮めれば、

本来の母の人格が露見するのは当然のこと。

 

ずっとは取り繕えないですもんね。

 

適度な距離を見極め、

その距離感で付き合うべきでした

 

さんざん子どもたちを虐待して

恐怖を刷り込んできた母が、

偉そうに子育てを指南してくる。

 

母の暴力を止めずに加担してきた父は、

謝るどころか

『しょうがなかった』と言ってる。

 

私は

大人になってから父母と関わる度に、

そんな両親の姿をみて、

仲良くなれないと感じて来ました。

 

他人を変えたければ、自分が変わればいい。

 

それは分かっていました

 

でも親子の話となると、

そうは思えない私がいました

 

私は親に、

辛い思いをたくさん強いられてきたのに。

 

なぜ私が変わる必要があるのか

納得できない思いがありました

 

本当は両親と仲良くした

 

大人になった今でも、親から愛された

 

愛されてる、と感じた

 

そう思えば思うほど、

への思い込みと理想だけが

高まっていきました。

 

そんなあるとき、

たまたま読んでいた

メンタル・タフネスという本の内容が目に留まりました。

 

その内容とは、

自身の許容量を超えるストレスにさらされた後、

その傷を癒やし回復すると、

 

以前よりエネルギーを貯蔵できるタンクが大きくなり、

生きる力が増し、

より強いストレスにも耐えられるようになる。

 

というものでした。

 

例えるなら、

筋トレにおける筋肉のような感じです。

 

筋トレをして、筋肉が傷つく。

時間とともに、傷ついた筋肉が修復される。

 

修復された筋肉は、筋トレする以前より強く大きくなる。

 

本には、

それと同じことが心にも起こる、と書いてありました。

 

私は、

虐待を良いこととは絶対に思えません

 

けれど、

私にとっての虐待は

許容量を超えるストレだったのかもしれない思いました。

 

この傷を癒やし

回復することが出来れば、

私は強くて大きいを得られるのかもしれない

 

そう考えると、

人生で起こる全ての不幸や不条理は、

すべて自分のためになっちゃいますね。

 

癒やし回復できれば、

より強く豊かな心を与えてくれる、傷。

 

でも、ちゃんと傷を癒やし回復しなければ、

傷のまま自分を苦しめるだけ。

 

やっぱりこの傷と向き合って、

癒やし回復しなくちゃいけない。

 

私はそう思いました。

 

 

ちなみに今まで読んだ

虐待や逆境を乗り越えた的な本には

 

優しい祖父母や兄弟や親戚の存在があって、

主人公支えていました

 

 

私には祖父母の記憶はなく、

支えとなるような存在はいませんでした。

 

辛い過去や傷を乗り越えた人に対して、

 

支えてくれる存在がいたから

克服できたんだよね、

 

私にはいなかったから

乗り越えるの困難っす・・・

 

と、

甘ったれた思いがありました。

 

でも、

そんなこと言っても始まらないし、

もっと過酷な環境に産まれついてしまった人だって

たくさんいるはず。

 

 

単純に羨ましかったのもありますが

 

過去や両親と向き合えないことの

言い訳にしていただけだったと

33歳になってやっと思えました。

 

とはいえ、

母への思いや関わり方について

困っていました。

 

母の親になるような気持ちで

接するべきなのか

 

いつか伝わる日を信じて、

私から愛をかけていくしか無いのか。

 

そう思うものの、

そうしようとは決められないでいました。

 

でも、

やな奴だから縁を切る、以外の関係になりたい

思っていました。

 

母は、虐待などしていない、と

思っているようにもみえました。

 

私は、

母の育児は虐待だったことを告げるべきか

 

また、

子どもたちは、母の虐待の影響で

 

大人になってからも苦しんでいることを告げるべきかも、

迷っていました

 

 

そんな折、

友だちから、映画の自主上映会に誘われました。

 

『かみさまとのやくそく』という、その映画は、

子どもがおなかの中にいるときの、

胎内記憶をテーマにした、

 

誕生の神秘を描いたドキュメンタリーです。

 

私は、ピンときました。

 

母と一緒に観ることで、何かが変わるかもしれない。

 

そう感じ、さっそく母を誘いました。

 

母は快諾し、

三週間後の上映会に、一緒に行く約束をしました。

 

そして上映会の前日、

母に待ち合わせや時間の確認の電話をしました。

 

すると、母は、

なんだかんだと具合が悪く、

無理そうだから電話しようと思っていた、とのことでした

 

私は母の具合を心配しましたが、

母は

他の用事に無理して行ったんだけど、それで悪化したみたい、

と続けました。

 

私はそれを聞いて、

今まで黙っていた心の声を、思い切って口に出しました。

 

—–いやいや、他の用事、行くべきじゃなかったでしょ!

—–怒ってはいないけど、

—–それで私との約束ドタキャンでしょ?

—–優先順位がおかしくない?

 

母『…ごめんね、すみませんでした…(すねてる風)』

 

じゃあ映画はキャンセルとして、

とりあえず明日会いに行くと告げました。

 

母は、誰かに話したい欲求がたまっていたようで、

電話を切ることなく、

次から次へと不満話をはじめました

 

私は、

自分の部屋を片付けられない、という話にだけ口をはさみました。

 

母は

もう3か月以上前から、片づけたいと言っていました

 

そして、私は何度となく、手伝うよと伝えていました。

 

私は電話口の母に、

体をかすのが辛いなら、私に頼めばいいのに、と言いました

 

は、

『頼るのは慣れてないからしたくないの。

甘えることに慣れてないのよ。

甘えて傷つきたくないの。

今までだれにも頼らず、自分一人で気張ってやってきたのよ。

だからそんな風に言わないでよ。』

そう言いました。

 

私は続けました。

 

—–一生苦手なことから逃げていくの?

—–だから今の人間関係なんじゃないの?

—–4人いた子どもたちのうち、

—–いま連絡取れてるの私だけだよね?

—–今のままでいいの?

 

そう畳みかけると、母は、

 

『自分を変えるくらいなら一生一人でいい。

誰とも関わりたくない。

 

そうやって(私の)兄と同じこと言うの?

兄も俺を頼ってくれって言ってたけど、

結局してもらうだけしてもらって

家をめちゃくちゃにして逃げたじゃない。』

 

叫ぶようにそう言いました。

 

私は、

それは、二人が大ことなことをすっ飛ばして

関わっていたからじゃないか、

と返しました。

 

・・・なことって何よ?』

 

そう聞いてくる母に、

虐待の過去について触れるべきかどうか、

私は迷いました。

 

続きは会って話そう、

と提案すると、

逆に警戒されてしまいました。

 

私は、思い切って話してしまうことにしました。

 

—–母さん、

—–どもたちを虐待してたこと覚えてる?

—–兄を裸にして、逃げ回らせて、タバコで根性焼きしたりしたよね。

 

長い沈黙の後、母は

 

・・・なんのこと?』

 

そう言いました。

 

母がすっとぼけたことに、

私は内心、とてつもなく驚愕していました。

 

でも続けました

 

—–林間学校も修学旅行も行かせなかったり、

—–殴ったり、

—–兄だけ晩ごはん抜きにして、

—–中にみんなの食卓の横で正座させたりしたよね。

 

はどんどん語気を強めました。

 

『兄のせいで

どれだけ警察やらいろんなところに

頭下げに行ったと思ってんのよ、あんたが何を知ってるの!』

 

私はつとめて静かな口調で、

でもひるまずに言いました。

 

—–そんな風になったのって

—–母さんが虐待したずっと後のことでしょ。

—–赤ちゃんから悪い子なんて、存在しないよ。

—–それに、悪いことしたら殴ってもいいの?

 

母はますます興奮したように、言いました。

 

『そんなことない!

あんちたちは母さんを苦しめるばっかりだったじゃない!

母さんが

どれだけ必死になって頑張ってたか

知らないでしょ!』

 

私は

 

—–母さんも被害者だったと思うよ。

—–でも、だからって子どもにひどいことしていいの?

 

そう返しました。

 

母は、

つい最近の兄と過ごした時の苦悩を、語りはじめました。

 

あんたも兄と同じこと言いたいの!

毎晩毎晩、

ずっと聞かされたわよ、土下座もさせられた。

でもそんなことした記憶ないわよ、

 

あんたまで母さんを責めるの!?

 

あんたたちだって

母さんにひどいことばかりしてきたじゃない!

いつまで母さんをいじめれば気が済むのよ!』

 

私は、母と兄を気の毒に思いました。

 

兄は高校中退後、母から家を追われ、父の家も出たあと、

ガソリンスタンドで

住み込みのアルバイトをしていたそうです。

 

その時、

他の社員の部屋に忍び込み、

空き巣を繰り返していました。

 

それがバイト先に発覚し、

同時に、

車上荒らしをしていたことも分かり、

行方をくらました兄を探すため、

 

警察から

父に連絡がきたことがありました。

 

兄が18歳のころでした。

 

その後、

兄は一人で、

家族みんなで最後に暮らした地に戻り、

借家暮らしを始めます。

 

20歳になった兄は、

警備員のアルバイトをしつつ、

当たり屋をしていたようです。

 

兄に頻発する人身事故を

不審に思った保険会社から、

やっぱり父のところに連絡が来て、知りました。

 

それから音沙汰の無かった兄ですが、

約10年後、

兄の友だちから電話が来ました。

 

父の脳出血での入院をきっかけに、

私が父のライブハウスを代理経営しているときでした。

 

兄が遺書を残して、行方不明とのことでした。

 

私はすでに退院していた父と、

兄の友だちのもとに向かい、

みんなで兄を探しました。

 

数時間後、

自宅近くの森林の中で、

大量の薬を飲んで倒れている兄が発見されました。

 

自殺未遂でした。

 

昏睡状態の兄は、救急車で運ばれました。

 

命に別条はありませんでしたが、

私が付き添うことになりました。

 

兄が目を覚ますまでの間、

心配した兄の友だちが、

兄の現状を教えてくれました。

 

高校中退で、

運転免許も持っていない兄は、

相変わらず警備員のアルバイトでした。

 

でも、

当たり屋をしたり、

会社の同僚や上司とケンカしては辞め、

長く無職だったとのことでした。

 

平屋の借家は、

何年も家賃を滞納していて、

ガスも止められていたそうです。

 

目を覚ました兄は、

家族がほしい、と言いました。

 

医師のすすめで、

何度か精神科のカウンセリングに連れていきましたが、

迎えに行っても不在だったり、

私の仕事があったりで、

いつしか疎遠になっていました。

 

被虐待児は、

 

先の見通しを立てたり、

整理整頓、

円滑な人間関係の構築、

自分を人間的に性的に大切にすること、

 

などが苦手で、

 

もっと深刻なPTSDや障害を残すこともあるそうです。

 

私も、その節がありました

 

でも私は、

子どもたちを授かったおかげで、

自分と向き合い

毎日きちんと生活出来るようになっていました。

 

私を救うために、

この人たちは産まれて来てくれたんではないか、

と思ってしまいます。

 

 

しかし、

兄の人生には、

母から受けた虐待の傷が、色濃く影を落としていました。

 

私は、

その事実と向き合わない限り、

兄に幸せは訪れないと思っていました。

 

第22話に続く

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中村華子プロフィール

キャプチャ

はじめまして、中村華子です。
3人の子どもと暮らすシングルマザーです。

親から虐待されて育ち『支配される恐怖』のなかで子ども時代を過ごしました。

アホ女子高校を中退しフリーターしていましたが、

『一生、誰にも支配されない生き方がしたい』と25歳だった2006年に起業し、1年で年収1,000円になりました。
↓2年続けて、本を二冊、出版しました↓


 
女子でも、

学歴も、才能もセンスも、

コネも人脈も、 経験も特技も、

何にもなくても、

依存せず自立できることを、身をもって体験しました。

 

少し昔の私と同じように『今を変えたい!』と思っていたら、
大丈夫です、ぜったいあなたでもできます!と伝えたい。

そのために、私の経験や知っていることを活かして欲しい。 そう思って、ブログを書いています。


もしすこしでも私のことに興味を持たれたら、ためしに読んでみて下さい!

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恋愛、仕事、起業、二度の結婚と離婚、出産、子育てなどなど、隠すことなくいままでのすべてをさらけ出した、私の生い立ちストーリーです。
寝不足になってしまう、と好評です(笑)。

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